コンテンツに「学び」だけを求めていたら、いつの間にかいろいろと失ってた話
「何が得られるか?」ばかりを考えるようになった
気づけば、本を読むときの視点がすっかり変わっていた。
昔は読みたいから読む、という感覚だったのに、最近は「何が得られるか?」が判断基準になっている。
この本は仕事に使えるか?自分の課題にヒントをくれるか?
読んだ後に誰かに語れる知識が増えるかどうかを気にしてしまう。
だから、読む本も偏る。ビジネス書や実用書が中心になり、あれほど読んでいた小説は手に取らなくなった。
そしてふと気づいた。「最近、本を読んでも心が動いていない」と。
学びにはなっている。でも、感情は置き去りだ。読み終えても、何も余韻が残らない。
受験浪人時代、小説ばかり読んでいた頃のこと
こんな状態の自分に、ふとよみがえったのが浪人時代の記憶だった。
当時、長野から上京し、立川の寮で一人暮らしをしていた。知り合いはおらず、隣の部屋は夜中までうるさかった。孤独とストレスに圧倒される毎日。
でも、僕には毎日のように通っていた場所があった。近所の図書館だ。
そこで読んでいたのは、受験に役立つ本ではなく、小説ばかりだった。
ヘルマン・ヘッセやカミュ、遠藤周作。ストーリーの中で感情が揺れたり、モヤモヤが少し言語化されたりすることで、どこか落ち着けた。
役に立つかどうかなんて考えていなかった。
ただ読む時間が、自分の輪郭を保ってくれていた気がする。
(お金を出してくれた親には申し訳ないし、お勧めは決してしない)
働き始めてから、本が読みにくくなった
社会に出てからも本は読んでいたけれど、小説だけは読みにくくなっていた。
どうしても「何を得られるか」を先に探してしまって、物語に没入できない。
感情よりも効率を優先してしまう頭になっていた。
最近、「働いていると本が読めなくなるのはなぜか?」という本が出版されたことを知った。
同じような感覚を抱えている人が、思っていたよりも多いのかもしれない。
働くことに慣れるほど、成果や効率を求める思考になる。
そのフィルターで世界を見ると、「意味がわからないもの」や「すぐに答えが出ないもの」はどんどん避けるようになる。
いつの間にか、感じる前に評価してしまう癖がついていた。
映画で泣いたことがなかった
思えば、僕はこれまで映画で泣いたことがなかった。
感動的な話を観ても「よくできてるな」で終わることがほとんどだった。
泣く人の気持ちが正直よくわからなかった。
でもある日、偶然観た昔の恋愛映画で、不意に涙が出た。
展開は読めていたし、特別なストーリーでもなかった。それなのに、最後の無言のシーンに胸を打たれた。
説明できない。でも確かに感情が動いた。
「こういう感覚、久しく味わっていなかったな」と思った。環境が変われば感情も変わるのだろう。
“役に立たない”からこそ、必要なものもある
この体験をきっかけに、「役に立たなさそうなもの」に対する自分の態度が変わった。
ここ数年、自分はそういうものを徹底的に避けてきた。意味があるかどうか。時間を無駄にしないか。
そればかりを気にしていた。
けれど、すぐに使えないものや、答えが出ない本にこそ、自分の幅や柔軟さを保つ成分があったのではないか。
役に立つ情報は、明日には別の何かに上書きされる。
でも、理由がわからないまま心に残るものは、思考や判断の土台として、ずっと残っていたりする。
目的のない読書が、目的のある行動を変えることもある
逆説的だけれど、目的を持たずに読んだもののほうが、人生を変えるきっかけになることがある。
浪人時代に読んだ小説たちは、何かを教えてくれたわけじゃない。
でも、感情を動かしたり、自分の中の「まだ言葉にならない部分」と向き合うきっかけをくれた。
そういう体験が、人との接し方や、仕事での判断、ものの見方に、静かに影響していたと思う。
何を得られるかわからない本の方が、何かを変える力を持っていることがある。
手を伸ばすには、どうすればいいか
「無駄でも構わない」とは思えても、いざ何を選ぶかとなると迷う。
だから今は、こんな小さな習慣から始めている。
•本屋で、普段行かない棚を歩いてみる
•タイトルや装丁だけで、意味がわからないまま選んでみる
•誰かが勧めてくれた本を、使えるかどうか考えずにそのまま読んでみる
•結末を知らないまま映画を観る
•途中で読むのをやめてもいいと決めて、読み始めてみる
重要なのは、「読む前に評価しない」ことだ。
読んだあとに“何も残らなかった”としても、それすら経験になる。
むしろ、「意味がなかったと感じる読書」を、自分の中に許すことが最初の一歩だと思う。
もちろん本や映画だけでなく、場所や食べ物、趣味などなんでもいい。
「無駄」を避けすぎると、自分の幅も狭くなる
働いていると、目的のあるものしか選べなくなる。それは職業人としては自然なことかもしれない。
でも、生活者として、あるいは一人の人間としては、それだけでは足りない。
意味があるものしか選ばない生き方は、一見スマートに見えるけれど、“感じる力”をじわじわと奪っていく。
だからこそ今は、自分にとっての「無駄」や「余白」に、もう一度手を伸ばしてみたい。
それは、成果には直結しないかもしれない。でも、「これが自分だ」と言える何かを、長い時間をかけて育ててくれるものだと思っている。

