二日連続で行きたい場所があるか
玄関に、銀色の派手なバッグが置いてあった。
中身は、ちゃんみなのグッズである。妻はライブの数日前にはもうグッズを買いに行っており、戦利品をその銀色に詰め込んで、玄関に据えていた。遠足前夜の小学生と、ほとんど同じ段取りである。違うのは、遠足が二日連続であることだった。妻は昨日と今日、二日連続で、ちゃんみなのライブに行っている。同じアーティストのライブに、二日、連続で、である。元気すぎるだろう。
私はというと、家にいる。うちには受験生がいるのである。夏の受験生のいる家というのは独特の静けさがあって、参考書のページをめくる音と、冷蔵庫の麦茶が減っていく音だけで一日が進んでいく。その静かな家から歩いて数分の玄関を、銀色のバッグが出ていった。今ごろどこかの会場では、うちの静けさと同じ週末の同じ時間に、まったく別の音量が鳴っているのである。同じ家族が、同じ二日間を、片方は無音で、片方は爆音で過ごしている。
いいことだ、と思った。
思ってから、この「いいことだ」の中身が気になった。留守番を押しつけられた負け惜しみではない、と思う。たぶん私は、感心しているのである。四十を過ぎて、二日連続で行きたい場所がある。前日からグッズを買い、装備、否、正装を銀色に整えて、二日とも行く。行けるかどうかではない。行きたいものが、あるかどうかの話である。翻って私に、明日もう一度行きたいと思える場所があるだろうか、と考えて、すぐには思い当たらず、少しへこんだ。同じ映画を二日連続で観たのは、たしか学生の頃が最後である。大人になるというのは、二日目を諦めることと、どこかで取り違えていたのかもしれない。
今夜、銀色のバッグが帰ってくる。中身は昨日より増えているに違いない。受験生は明日も参考書をめくり、私は明日も会社に行く。それでもこの家には、二日連続で行きたい場所のある人が一人いて、その人の鞄は銀色に光っている。いいことだ。今度は負け惜しみ抜きで、そう思えた七月だった。


